泥沼記

ジョーカー

遅ればせながら見てきました。

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公開以来、大きな話題を呼んでいる作品だけあって社会派映画として考えさせられるし、ビジュアル的にも楽しめる映画だった。

 

以下ネタバレあり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけ話題になっているとなんとなく内容は知ってしまっていたし、トレーラーの感じからもスーパーヴィランとしてのジョーカーの活躍は諦めていたが、そのおかげである意味純粋にこの映画を楽しめたのかもしれない。

 

社会から見捨てられ悲劇的な人生を耐え忍んだ末に怒りを爆発させたアーサーは、狂気に染まりきった従来の悪のカリスマとは程遠く、人間味のある等身大のヴィランとして描かれていた。後にバットマンとなるブルース・ウェインとの因縁も描かれてはいたが、正直言ってこのジョーカーではバットマンの相手が務まるように思えない。(ここから成長するのかもしれないけど、続編の予定ははなから無いようだし)

 

終盤のマレーとの対談は特に印象的。ビジュアルこそカリスマティックで優雅に振舞っているが、子どものように喚き散らして論破された相手を射殺する彼には、いつでも飄々とふざけて笑う「ジョーカー」的な余裕は感じられない。

 

貧富の格差が広がる現代社会への警告というメッセージ性の強い本作は、一見すると富裕層への一方的な警告のように思える。

しかし、本来悪のカリスマだったジョーカーをここまで等身大のヴィランに落として描いているのは、破滅に誘惑されがちな僕のような不道徳なビンボー人への警告でもあるのだろう。

今作のジョーカーはビジュアル的にはヒース・レジャーに負けず劣らずカッコいいが、コミック版でも安定せず映画でははぐらかされがちな彼のバックボーンや内面を現実的に描ききることで、我らが悪の王子と夢見ていたジョーカーがハリボテだったことに気付かされる。

(妄想オチもありえる含みのあるエンディングで、もしかしたら本来のジョーカーの妄想だったのかもしれないと、ファンに一応希望を持たせてはくれるが、『こんなジョーカーだったらダサくない?』という説得力のある可能性を提示された)

いくら苦しんでいたとしても、ジョーカーのようなハリボテを崇め奉り、暴動で破滅を引き起こせば良い未来はありえない。

 

 

そんな風に暴徒予備軍を窘める一方で、抗議活動に見向きもせずにチャップリンのコメディ映画を楽しむような、現実に目を向けない上流階級への警告も同時進行で盛り込まれている。

飢えて傷つき続ける貧困層理論武装でねじ伏せようとすれば、ジョーカーが当初は自殺を予定していながらマレーを撃ったように、却って彼らを凶暴化させてしまう。だからといって地下鉄での警官のように銃や暴力で暴徒をねじ伏せようとしても火に油を注ぐようなものだ。

また、等身大のヴィランとしてのジョーカーは悪役としての格が落ちた反面、誰もがジョーカーになれるということでもある。原作ではカリスマと天才的頭脳で他人を狂気に陥れることを得意としていたジョーカーのことだから、今作は全て人を狂気に陥れるための脳内シミュレーションで、わざわざ自分が手を下すまでもなくアーサーが狂気に陥り暴動にまで発展してしまったことに思わず吹き出してしまったのが、ラストシーンの「純粋な笑い」なのかもしれない。

 

またこの映画をジョーカーの妄想と捉えるなら、コミック版ジョーカーのオリジンの定説(雇われ泥棒だったレッドフードがバットマンに追い詰められ、薬品溶液に落ちてジョーカーとなった)の逆で、「ジョーカーがバットマンを誕生させたとしたら」という妄想だったのかもしれない。こう考えると暴漢に襲われ父母を失ったバットマンのオリジンと同じく、暴漢に襲われたことがきっかけで自身が覚醒していく様を妄想するジョーカーの「バットマン愛」を感じられて、満足げに笑うジョーカーと「理解できないさ」という台詞もしっくりきてしまう。

 

 

本作は格差の広がる歪な社会で貧・富の双方に警告を叩きつけるもので、ジョーカーという強烈なキャラクターを利用した印象深い作品だった。

一方で娯楽作品としては後半のジョーカーの振り切れなさから、少しモヤモヤが残る。やはりビジュアルを初公開したティザー映像や地下鉄シーンのリークから、勝手に期待してスーパーヴィラン「ジョーカー」を見たがっていた自分がいる。