泥沼記

The Last of Us

※ネタバレ注意!

Part Ⅱに備えて2年ぶりに遊び直したので、自分なりにラスアスの魅力を振り返っていく。

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The Last of Us』はゲームという媒体を最大限に活かして映画に勝るとも劣らない表現を見せてくれた。映画的なゲームが「何故映画ではなくゲームでないといけないのか」を示してくれる作品。

 

ゲームならではの良さとして真っ先に思い当たるのは『強い感情移入』。キャラクターを自分で操作することでそのキャラの体験に強く感情移入できるし、作品世界を自分の意思で探索することで世界観の広がりも強く感じられる。

ラスアスはこの感情移入の強め方が巧い。プロローグからその巧みさは発揮されていて、子供目線で物語が始まることは「アウトブレイクの始まり」への不安感を強めているし、何気ない探索で発見できる誕生日カードからも娘への感情移入が強まる。プロローグで誰かが死んでも普通は他人事感が強いけど、これら少しの工夫で「娘の呆気ない死」に対する喪失感が強まり、今後の容赦ないストーリーに期待(不安)を抱かせてくれる。

 

本編でもゲームであることを活かして、感情移入と世界観は深められていく。

特に巧いのが物資を持てる量が少なくギリギリになりやすいゲームバランス。アウトブレイクから20年後の枯渇した世界を生き抜く緊張感が体感できる絶妙なバランスだった。

空の引き出しだらけの廃墟探索やそこで見つかる文書はその世界観を更に深めてくれるし、スクラップを活用するクラフト要素も世界観にマッチしている。更に、エリーとの会話や戦闘時の助け合いが続くことでジョエルとプレイヤーの「エリーへの想い」はシンクロしていく。

こういったゲーム部分とストーリーの見事な調和が今作の魅力であり、映画には無い持ち味だ。

 

そして、じっくりと感情移入を深めたプレイヤーを待ち受けるクライマックス。

ハンターとは違い大義の為に戦うファイアフライを殺すのは流石に少し気が引けるものの、彼の決死の救出劇を熱く応援し操作したプレイヤーも多いだろう。

だが、TPSではプレイヤーと主人公の目線は近いとはいえ異なっている。主人公はあくまでもプレイヤーとは別人であり、考えが完全に一致するとは限らない。そのことを強調するかのように、ジョエルはエリーの為に暴走する。ゲームを通してエリーへの想いを共有しているとはいえ、ジョエルが容赦無くマーリーンを殺害する様には少し引いてしまったプレイヤーも多いのではないだろうか。(逆に彼に共感したプレイヤーはその前に医師達を射殺することもできるのだが…)

マーリーンを生かしておけばどうせ追ってくるというジョエルの言い分も確かだが、ここまで過剰に危険を排除したがるのは、やはり娘を亡くした彼が今度こそエリーは確実に救いたいという想いからだろう。娘の死をプロローグで垣間見ただけの僕では彼の想いと完全に同調することはできず、どうしてもマーリーンを殺す彼には何となく距離感を覚えてしまう。初見プレイの際も、ボイスレコーダーでウジウジぼやいておきながら、結局多数の為にエリーの命を犠牲にしようとするマーリーンに対してイライラしていたのに、いざ無慈悲に殺すジョエルを見てしまうと少し引いてしまったのを覚えている。

そしてエピローグでプレイヤーが操作するのはまさかのエリー。エリーもプレイヤーと同じく、亡き娘への強い想いを向けてくるジョエルに距離感を覚え始めたのだろうか。彼女の複雑な表情で物語は終わる。

 

「表情」による含みを残した、ゲームとは思えないエンディング。あっさりしすぎだし腑に落ちないという人もいたかもしれないけど、僕にとっては映画の醍醐味である「表情から心情を解釈する楽しみ」をゲームにもたらしてくれた忘れ難いものだった。

また、ゲームは主人公に感情移入するものであるというイメージを逆手にとった最後の展開は新鮮だったし、プレイヤーとジョエルの心の距離感がエンディングでのエリーの心情と重なる結末にも捻りが効いていた。

 

Part Ⅱでは更に進化したグラフィックは勿論のこと、今作の魅力であったゲーム性とストーリーの調和、尖ったエンディングに更なる磨きがかかっていることに期待している。エリーはジョエルに救われた命で何を為すのだろう。